2024年4月29日

伝説の車メーカーフェラーリ

フェラーリは世界的に有名なスーパースポーツカーを生産する、イタリアが生んだ高級自動車メーカーです。
数々の伝説に彩られておりレース界を中心にした永年の活躍は、車が好きな人にとっては絶対に外すことが出来ません。
イタリアのレーシングドライバーだった創業者のエンツォ・フェラーリは、レースから引退した後に小さなファクトリーメーカーを作りました。
自身の理想を体現する車作りを目指しておりましたが、当初は別のブランドを販売するカーディーラーとしての出発だったのです。

息子の誕生を機にエンツォはレーシングドライバーを正式に引退

また四輪だけではなく二輪車の販売整備を行っていたことでも知られております。
後のブランドの礎になるカーショップは1929年に設立されました。
息子のアルフレードは1932年に生誕したのです。
それを機にエンツォはレーシングドライバーを正式に引退し、カーショップ代理店に軸足を置きました。
同時に今度はレーサーではなくサポートする側でレースに携わり、名メカニックと名を馳せていったのです。
ワークスチームの一員になり数々の勝利に貢献して、名誉もお金も手に入れました。
カーショップのディーラーをやめてメーカーの産声を上げたのは、それから間もない1940年だったのです。
時はヨーロッパに不穏な空気をもたらして、やがて世界中を巻き込んだ戦争へと突入しました。
新しく立ち上げた自動車メーカーは生産中止を余儀なくされ、戦火を受けて工場も焼け落ちてしまったのです。
スタートはよくありませんでしたが、ここからが創業者エンツォ・フェラーリが世界に名を冠したブランドへと成長する軌跡を描く瞬間でもありました。

1946年からは自分たちでエンジンの設計と開発を行う

1946年からは自分たちでエンジンの設計と開発を行い、フルオリジナルのレーシングカーを完成させたのです。
レーシングスポーツカーの名前は125Sと付けられて、僅か2台のみ生産された貴重なモデルであります。
イタリア国内のローマグランプリに参戦し、見事125Sは優勝を飾りました。
一躍有名になったメーカーは、戦後に明るい兆しを印象付けた時代の寵児にしてレース界から愛される存在に成長してゆきます。
翌年の1947年には新しいレーシングカー195を作り上げ、著名な2大レースをそれぞれ制覇することになります。
この頃の車は手作業で作られていたスペシャルカーだったので、市販されたのはこの後のモデルからになるのです。
レーシングカーを兼ねて開発されたGTカーである166は、少数受注生産でモータースポーツファンの富裕層に向けて開発販売が行われました。
有名な貴族や富豪は購入したスペシャルカーでレースに参戦し、好成績を収めて一躍名を上げたのです。
専門のレーシングカーだけではなく、市販車でも運動性能が高い車だったので注目を集めて垂涎される存在へと変わってゆきました。

ヨーロッパからアメリカへ進出してきたのは1950年前後

イタリア国内での活躍に留まらず、ヨーロッパからアメリカへ進出してきたのは1950年前後です。
24時間耐久レースでの連覇や、その他のレースでの好成績は好事家だけではなくてモーターファンにも受け入れられたのでした。
さらなる市販車の拡大需要を受けて開発されたのが北米向けの212ヴィニャーレや340アメリカなど、レーシングカーで培ったエンジン製作技術を活用して作り上げた市販車です。
一般公道を走るために安全性を追求して、わざと性能を下げるデチューン処理を施し、車種や販路を拡大する路線が取られました。
この頃の車は初期モデルとなり流通され、現在でもスペシャルなビンテージレーシングカーの息吹を感じさせる一台にして、オークションなどではとても高額な価格で取引をされているのです。
その後のフェラーリも伝説を数々生んでゆきます。

工芸品とまで呼ばれた世界初の市販車12気筒エンジン

レース場だけに留まらず、新たな挑戦の形と作り上げられたエンジンは有名です。
工芸品とまで呼ばれた世界初の市販車12気筒エンジンは、どこまでも伸びるフィーリングと吹け上がりからまるでクラシック音楽のようだと評されました。
世界的に有名なクラシック音楽指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンは、フェラーリを愛するオーナーと知られており12気筒エンジンの250GTルッソと275GTBを所有したことでも知られております。
オペラ歌手のパバロッティもこの自動車メーカーを愛したことで著名であり、音楽家の琴線にも響く至高の芸術品としての完成度を持つ車の数々だったのです。
愛する息子の名を冠したディーノシリーズは、あえて半分の6気筒エンジンを積みこみました。
万人が運転しやすいのは高性能でありながら繊細な12気筒よりも、6気筒の方が扱いやすいというのが見解になります。
ミッドシップ2座席スポーツカーは、ライトウェイトスポーツカーの名作として今なお愛されるのは、創業者の息子だったディーノが若くして亡くなったことも影響としては少なくはありません。
フェラーリの歴史を紐解けば数々の伝説が蘇ります。
今なお創業時と変わらぬ情熱でレースを続け、レースから得られた体験を市販車に搭載してリリースしているのです。